日本におけるネジの歴史は古く、古墳時代にはすでに鉄釘やかすがいなどが使用されていました。今でも多くの古墳から出土しています。
日本へのねじ部品の伝来
しかし、ネジと呼べる形状が日本に伝わったのは、それからはるか後の、1500年代半ばといわれています。時代で言うと室町時代の晩期にあたります。
この頃の日本は、地方政権が群雄割拠して互いに相争った戦乱の時代にあり、種子島に漂着したポルトガル人が鉄砲を伝えたのもこの頃です。
この火縄銃には、火薬を出し入れする尾栓部分にねじ状の部品が使われており、これが日本のねじ伝来の起源だといわれています。
つまり、火縄銃とともにねじが伝来したわけです。
伝来した鉄砲は、当時、種子島と呼ばれる火縄銃で、戦乱の世の戦に大きく影響を与えることとなりました。
戦い方を大きく変えた火縄銃は、その後、日本国内での製作に挑むこととなります。当時の日本は、工業製品と呼ばれるものの製造技術に著しく乏しく、簡単に作れるものではありませんでした。
火縄銃本体はもとより、ねじの概念がなかったため尾栓部分の製造には苦慮したようですが、製造を依頼された刀鍛冶がポルトガルから技術を輸入することにより、尾栓部分の製造に成功します。これにより日本でもねじ部品の製造が開始されたわけです。
ねじの本格的な製造開始期
ねじの基本となる部品の製造が可能となったものの、ねじ切り装置が開発されたのは、19世紀半ば。東芝の始祖となる、発明家からくり儀右衛門が和時計の部品にねじを使用したものと言われています。
その後、本格的な‶ねじ”が日本に入ってくるのは、江戸時代末期の鎖国が解消されたころとなります。
1860年に遣米使節団として、アメリカに渡った、若かりし頃の小栗上野介は、次々と機械で製造される軍艦に衝撃を受け、日本でも工業化を推し進めよう決意。1本のねじを持ち帰ります。
日本に戻った小栗は、横須賀に製鉄所、造船所を建設し、その後の日本の工業化に大きく寄与することとなります。
規格化が進むねじ
ねじは、その後の明治23年に工業生産化され、JES/Japanese Engineering Standards(日本標準規格)が制定されます。
途中、戦時中の臨時JESを挟み、1949年には、工業標準化法が公布され、JESがJISに切り替えられます。1952年にはメートル並目ねじ、インチ並目ねじの工業規格を制定しています。
また、1947年に設立したISO(国際標準化機構)とも互換のあるねじ系列に準拠するために日本工業標準化調査会の審議を経て1965年4月1日付けで日本工業規格が一斉に改正されあました。これにより一般ねじはISOメートルねじとなります。
ただし、規格は国際標準に準拠したものの、現在でも実際に流通しているねじは、旧来のJIS規格(付属書)の名残を残したものや、廃止されたはずのウィットが、残っていたりと完全に準拠しきれていないのが現実です。
ねじの生産発展
第二次世界大戦後以降、日本の経済発展とともに自動車や家電製品の生産が盛んになり、ネジも重要な部品として生産されるようになりました。
一時期、価格の差から海外に流出した、ねじの製造もオートメーション化によるコスト削減などにより、国内に戻りつつあります。
また、日本で管理・製造されたねじは、高品質で信頼性が高いため、世界中で使用されています。
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